ポーカー始めた人の日記

ポーカーを始めた人の日記です。

日記②

日記ほどパーソナルではなく、かといってブログほど商業的でもなく、何かの説明や方法を公開しているというわけでもない。独白のような、しかしそれよりかは淡々としているような、そんな文章を書きたいとおもい、キーボードを叩いている。

 

ポーカーで失敗した時、ハンド履歴を見ながら、自分自身が失敗したその時間を往復している。良い調子でポーカーをすることができても、ほんの一瞬の気の緩み、肉体の緊張で、ゲームの中でそれまでに築き上げてきたものは崩れ去ってしまうのだなと思っている。そのハンドの前までは上手にプレイできていても、プレイできているが故に、その次のハンドでミスをしやすくなってしまう。

 

ポーカーをやればやるほどに、自分の弱さを見つけることができる。その弱さをなくそうと、強くなろうとするのは、弱い人間のエゴだろうか。自分の中にあるそうした弱さこそが、本当に大事なものであるような気もするし、生きて行く上で邪魔にしかならないもののようにも感じる。

 

ふと、矛盾しているようだけど、真の強さとは、強さとか弱さという軸から離れたところにあるものなのかな、と思った。強いとか弱いという縦軸の中におさめることは、やはりどこか歪な捉え方であるような気もする。何かを求めてしまったらその時点で、それは与えられることのないものになってしまうのかもしれない。強さを求めずに強くなれたらいいなと、さっき思った。

日記①

ポーカーはギャンブルだ。知的なゲームであるのは間違いないけど、やはりそれ以前にギャンブルであると思う。そしてそれがギャンブルである以上、強い人はきっと最初からある程度強くて、弱い人は最初からある程度弱いのだと思う。それは、賭けるという行為に向いているかどうかという、先天的かあるいは後天的な要素によって決まってくると思う。

 

僕は数年前まで対人恐怖症で引きこもっていた。そのころは1日の大半を自分の部屋の中で寝て過ごしていた。何も活動をしていなくても、すでに体が疲れていたように思う。起きたらだいたいその日の調子がわかった。調子が悪いときは本を読むことも、映画を見ることもできないから、だいたいは音楽を聞いたり、泣いたり、処方された薬を飲んで落ち着いたり寝たりしていた。調子が良いときは本を読んだり、映画を見たり、日記を書いたりして、退屈をしのいでいた。家族と顔を合わせるのも忍びなかったので、みんなが寝静まった頃にこっそりと自室を抜け出して、冷蔵庫の食材を取り出し、おかゆなどを作って食べた。ニラとジャガイモと鳥挽肉が入った乳粥をよく作っていた。自分を癒すことのできるような、優しい味の乳粥だった。

 

僕は賭けるという行為には向いていないと思う。引きこもってしまうような心身の状態では物事を正常に判断することができない。自分に勝率が少ないのに勝てると思い込んでしまったり、対戦する相手がとても強い存在のように感じてしまったりする。歪な判断をしてしまう傾向があるということは、そういう状態ではない対戦相手に対して、かなりのハンディキャップになってしまう。

 

強さとは、しなやかな竹ののようなものだと思う。揺れたり、曲がったりはするけど、折れることはない。しっかり土地に根を張っているから、厳しい風が吹いても、その風に合わせて揺れたり曲がったすることができる。そうした強さは、なんらかの目的のために獲得するようなものではない気がする。ある人がいて、その人がそのことに気づき、そして気づいてしまったからにはそこへ向かわなければいけない必然性のようなものがその人に芽生えた時に、ようやくそこへ向かっていける、というようなものだと思う。

 

そういう風になれたらいいなとは思う。